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今から460年前の天文11年、羽前国村山郡楯岡在林崎村(山形県村山市楯岡)に住む浅野数馬・菅野夫婦に男の子が生まれ、民治丸と名付けられた。
この子が6才の時、楯岡城主最上家に仕えていた数馬は、坂上主膳という兵法者に斬られ、主膳は逃亡、民治丸は幼くして敵討ちの重責を負う身となった。 以来彼は剣を学び、寝る間も惜しんで工夫を重ね、林崎明神に篭って大願成就を祈ったが、百日満願の日、夢うつつの間に抜刀術の妙技を悟ったのである。 時に弘治2年(1556)、わずか14才だったという。 当時、合戦に臨む武士たちは、槍に対抗するため刃渡り3尺3寸(約1m)にも及ぶ長剣を用いていた。だが抜けば威力を発揮する長剣が、腰に帯びた時は抜き難いというマイナスに働く。まして敵討ちは、名乗りを上げて尋常に戦うとは限らない。寝込みを襲われることもあり、闇夜に後ろから斬られる場合もあり得る。 彼はいかなる条件の時も瞬時に刀を抜き、敵を倒す術を工夫したが、それが即ち居合だったのである。 彼は18才で元服して林崎甚助重信を名乗り、工夫した抜刀術を林崎夢想流と名付けた。かくして勇躍敵討ちの旅に出た重信は、2年の後に京で坂上主膳と出会い、みごと討ち果たして武名を上げることになる。 その後も彼は武術修行の旅を重ね、禅の道をも究めようとした。いつ出会うとも知れぬ敵を思っての恐れ、あせり、不安。剣を自在に振るうとは、心の自由を保つことに他ならないと痛感したからである。 林崎重信に居合を学んだ弟子には、片山伯耆守久安、田宮平兵衛業正、関口弥六右衛門氏心、長野無楽斎槿露、高松勘兵衛信勝などがあり、それぞれに工夫を加えて、伯耆流、田宮流、関口流、無楽流、一宮流などを興している。 時代は下って江戸時代、林崎夢想流七代目の長谷川主税助英信は時代感覚の鋭い人だった。彼は抜刀、納刀の形を太刀から帯に差す打刀向きに改め、業を一新した。以後この流派を無双直伝英信流と称するようになる。 更に九代目林六太夫守政は、神陰流達人大森六郎左衛門正光から、畳に正座して行なう技を学んでこれを取り入れた。 林守政が土佐藩に伝えた英信流は、御留流として永く門外不出となったが、十七代大江正路に及んで技を整理して学び易くし、全国を廻って英信流の普及に努めた。 これが、大船道場で学べる無双直伝英信流である。 林崎甚助重信の技と心を伝える巻物「天地根元之巻」に次の歌がある。 居合とは心を守るに用うべし
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| 大船道場について::無双直伝英信流とは | 2007/08/13 11:32 PM | comments (x) | trackback (x) | |


当時、合戦に臨む武士たちは、槍に対抗するため刃渡り3尺3寸(約1m)にも及ぶ長剣を用いていた。